Violin演奏 独学のすすめブログ

「Violin演奏 独学のすすめ」の著書の内容に関係する追加など

理性と感情

モーツァルトを演奏するときに、例えばある人は繰り返しの二回目はやや弱くする、ということを当たり前のように言いますし、やります。その理由はと聞くと、先生から言われたから、となる場合も。これは理性的な理解と言います。演奏においてはこのような理性的な理解はかなり重要ですし、わかりやすいです。それに比べ、単に演奏を比喩的に述べ、具体的にこうするああすると言わない場合は、わかりにくいと言われます。

しかし、このわかりやすい説明には、演奏者にとってかなり致命的な落とし穴があります。つまり、本来音楽演奏は聞き手の感情に訴えるものであり、決して理性に訴えるものではありません。大事なのは繰り返しの2回目を弱くすることではなく、それによってどういう感情に訴えるか、ということなのです。例えば二回同じように繰り返すと退屈するから、という理由で弱くするという説明をする場合があります。しかし、弱くすれば退屈を避けられるということは全くありません。ですから、退屈を避けるために2回目を弱くするという演奏にも意味がありません。それは単に理由であって、本当に2回目が退屈しないかどうか、それを保証するわけではないのです。つまり理性的な理解は大切ですが、そこからどういう表現にするかを見つけなければなりません。

同じようなことは市民オケやレッスンで頻繁に生じます。例えば、指揮者が、ここはもっと強く、と言います。そして言われた人は楽譜に強くと書き込んだり、マークします。しかし、指示に従って大きな音で演奏すること自体には意味がありません。それは理性的な理解であって、感情に訴える演奏について示しているわけではありません。結果、単に強いだけの、場合によってはうるさい演奏になるだけなのです。強くするということはどういう表現にすることなのか、自分の感情を動かして感情的に音楽を理解するということが必要です。市民オケなどの初級者達には、わかりにくい指示かもしれませんが、ここはもっと堂々ととか、響きが広がるような音でとか、自分達が英雄であるようにとか、比喩的で感情が動かされるような説明の方が的確になる場合は多いでしょう。しかし、具体的ではないので、わかりにくい、ということになります。

音楽表現というものを考えないで演奏する場合は必ず理性的な理解だけで満足してしまいます。しかし、音楽家と言える人々は、単純な理性的な指示だけで、どういう表現かを理解するのです。ですから、指示の仕方に良い悪いはありません。常に、その場の状況にふさわしい指示方法というものは変わるものです。そして、最初から案外細かく表現についての説明をすると、あなたのイメージの音楽と私のイメージしている音楽は違うから難しい、ということになる場合もあります。ですから、基本は楽譜に書いてもいいような理性的な指示や説明が普通でしょう。

このように、理性と感情の問題は何度も取り上げていますが、なかなか理解が難しいものの一つです。まずは理性と感情が全く別のものであるということを理解する必要があります。初期のAI科学者の中に、コンピュータのプログラムが複雑になれば、それが感情を形成するようになる、と考えている人が普通にいました。つまり、データを比較して判断するという単純な理性を持つコンピュータプログラムも複雑になることによって、感情と同じような計算結果を出すようになるというわけです。ですから理解するという誰でもよく知っている体験すらもコンピュータは持つことができ、中国語の部屋問題というものに代表されるように、中国語で正しく応答できるなら、コンピュータは中国語を理解していると言えるのだと真剣に主張されていました。最先端の考えは時代とともに徐々に下へと降りていきますから、今では一般人や一部の科学者はそういう考えを持つ人がいるでしょう。

音楽に限りませんが、例えばクラシック音楽を好きな人は感情は喜怒哀楽以外に多くの種類が存在し、それは理性では置き換えることができないものだという体験をしていると思います。そして、感情について多くの体験をすることで、つまりクラシック音楽にのめり込んでいく中で、感情は理性と反するものでもなく、さらに理性と同等に人間にとっては必要なものであるということを知ると思います。人間の進化は精神的な面で生じますが、理性の発達だけでなく、この感情の発達も同様に重要で、教育においてもそれが取り上げられるようになるといいと思います。

 

 

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