Violin演奏 独学のすすめブログ

「Violin演奏 独学のすすめ」の著書の内容に関係する追加など

祇園精舎の鐘の声

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

実は、今深夜アニメで平家物語をやっていて、これがとても面白いのですが、これとは無関係に、音楽と結びつけたお話です。
平家物語の冒頭は単なる比喩ではなく、実は、実際のことを引き合いに出しています。沙羅双樹は、4月ごろから花をつけるツバキ科の植物で、御釈迦様が亡くなるときに近くあった二本の沙羅の木のことです。一方、祇園精舎は、お釈迦様が教えを説いたお寺のことで、僧が亡くなると鐘を鳴らしたのです。花は開いたら枯れます。このことから、逸話がなくても、沙羅の木の花から、盛者必衰の理を連想できるかもしれません。鐘の音も、大きな音がやがて小さくなって無くなっていく、このことから諸行無常を連想するのは不可能ではないでしょう、

さて、鐘の出来具合、そして叩く人によって、音はずいぶん変わります。そして、諸行無常を感じ易い音と感じ難い音があるのではないでしょうか。そうだとするなら、それは人が作るものであり、ある程度コントールできます。それは既に演奏です。音楽は思想などではなく、感情に直接働きかけるものですが、それだけでなく、そこから祇園精舎の鐘のように思考を読み取ることもできます。もちろん楽譜には書いてありません。しかし、たとえば頑張って練習することで、そこから頑張ることの大切さを知る演奏ができます。息の合ったアンサンブルの美しさから協力関係の素晴らしさを知る人もいるでしょう。演奏者は演奏に何らかの思考を結びつける必要は全くありません。しかし、単にテクニックがある、音楽性がある、だけでないものが演奏から知ることができることを知っておくといいと思います。

祇園精舎の鐘の声

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

実は、今深夜アニメで平家物語をやっていて、これがとても面白いのですが、これとは無関係に、音楽と結びつけたお話です。
平家物語の冒頭は単なる比喩ではなく、実は、実際のことを引き合いに出しています。沙羅双樹は、4月ごろから花をつけるツバキ科の植物で、御釈迦様が亡くなるときに近くあった二本の沙羅の木のことです。一方、祇園精舎は、お釈迦様が教えを説いたお寺のことで、僧が亡くなると鐘を鳴らしたのです。花は開いたら枯れます。このことから、逸話がなくても、沙羅の木の花から、盛者必衰の理を連想できるかもしれません。鐘の音も、大きな音がやがて小さくなって無くなっていく、このことから諸行無常を連想するのは不可能ではないでしょう、

さて、鐘の出来具合、そして叩く人によって、音はずいぶん変わります。そして、諸行無常を感じ易い音と感じ難い音があるのではないでしょうか。そうだとするなら、それは人が作るものであり、ある程度コントールできます。それは既に演奏です。音楽は思想などではなく、感情に直接働きかけるものですが、それだけでなく、そこから祇園精舎の鐘のように思考を読み取ることもできます。もちろん楽譜には書いてありません。しかし、たとえば頑張って練習することで、そこから頑張ることの大切さを知る演奏ができます。息の合ったアンサンブルの美しさから協力関係の素晴らしさを知る人もいるでしょう。演奏者は演奏に何らかの思考を結びつける必要は全くありません。しかし、単にテクニックがある、音楽性がある、だけでないものが演奏から知ることができることを知っておくといいと思います。

練習時のイメージの使い方

練習では、楽譜を見ながらゆっくり弾いたり、繰り返したりが普通だと思いますが、この時、イメージをうまく使うことで、練習がはかどり、効率的になります。

まずは何度も言っていますが、勉強でもバイオリンの練習でも20秒以内、さらには2時間以内の短期記憶を使うことが大事です。演奏では、楽譜を見ながら繰り返すのではなく、繰り返す部分を短期記憶してから繰り返します。速いところはゆっくり練習したりすると思いますが、そのゆっくりについては別の注意事項があるので、そのうちに書きたいと思います。覚えたら、自分が正しく弾くイメージを作ります。つまり、左手、左の指がどう動くか、そして右手がどう動くかの理想的なイメージを頭に浮かべてから弾くのです。ということは、楽譜を覚えるだけでなく、全ての動きを覚えてイメージする必要があります。
こういうイメージを先行させる練習をすることで、イメージできれば弾けるようになります。慣れてくれば、イメージをはっきりと具体的に頭に浮かべなくても、その核となる音楽が浮かぶだけで弾けますので、合奏などでは、共演者の音を聴きながら弾けるようになります。そうしたら、今度は合奏時の自分が弾くイメージを持って弾けるでしょう。

演奏家の矜持、音楽への愛

 サティは、音楽家を、二種類に分けていたと言われています。一つは詩人、もう一つは音楽家。彼自身詩を書いていますが、そういう意味の詩人ではなく、素晴らしい芸術家を意味しており、音楽家というのもいわゆる職業音楽家のことで、あまりいい意味ではないのです。どういう基準で分けていたかは彼自身の音楽観ということになりますが、私も作曲家や演奏家を普遍的な基準で区別できると思います。

いわゆる名手は、名曲とは思われていない曲を弾きますが、そこに他の演奏家とは違う別の本質的なものを聞かせます。カザルスの「鳥の歌」を同じように上手に演奏する演奏家はアマチュアを含めてそこら中にいますが、決して弾けない、という演奏家も大勢おり、それはカザルスの演奏が持つ特別な価値にあります。

 カザルスを出してしまうと、凡人には無理と思ってしまいますが、そうではありません。それは人前で演奏できるレベルにあるならば、誰にでもできることなのです。決して難しいことではありません。しかし、それを言葉で説明するのはなかなか難しいです。それはまず、演奏者の姿勢に関係します。ある姿勢、曲への向かい方、それに特別なものが加わることで、演奏そのものが全く変わります。例えば、作曲家への尊敬、曲への敬意、それを持っている、と言えたとしても、それで演奏自体が変わるということは言えないでしょう。しかし、それを持つことで持たない前に比べて演奏ががらり変わるものがあります。人によっては、それを尊敬、敬意という同じ言葉で呼ぶかもしれませんし、音楽の尊厳、演奏家の矜持、あるいは愛、と呼んでもいいかもしれません。それを持って演奏するだけで演奏が全く異なる価値を持つようになります。

 そういうものがあると知らないと、そんなもの存在しない、ということになります。しかし、否定してそれを求めなければ決して知ることはできません。かといって、そういうものを探しても簡単には見つからないでしょう。しかし、大家の演奏、そして、大家に限らず本当にいい演奏というものから自分の流れてくるものの中にそれはあります。そうして、徐々にその存在を知ることができます。それは常に演奏の中にあります。また、曲に真剣に向かい合い、曲が秘めている全ての表現を求めることでも見つかるでしょう。それは演奏家がイメージする理想的な演奏の中にもあります。


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目指にすべき地点

 演奏のレベルを示す目標として、若い人の中には、聞き手を感動させること、とする人もいます。しかし、感動するかどうかは人によって全く異なります。名演奏とは言えなくても、その曲に思い入れがあって涙を流す人もいるし、多くの人の心を動かすような素晴らしい演奏であっても、時々見せるこういう仕草が面白かったなどの、演奏とは直接関係のない印象を述べる人もいるでしょう。感動させるという目標を設定する場合はこういうことを知っている必要があると思います。また、感動したかどうかは聞かないとわからないというのも問題です。

 カレー専門チェーンのCoCo壱番屋の人が方針として、素晴らしいカレーではなく、そこそこのカレーを目標にして作っているというような話をしていました。その理由は、大満足をするというカレーでは次に来る時まで時間を置かれてしまうから、そうではなくて毎日でも来て食べてもらえるようにしている、というのでした。それはなるほどとは思っても案外難しいぞ、と思いましたた。ちなみに私は今日のようなカレー人気はない昔に、よくあちこちのカレーを食べていましたが、CoCo壱番屋のカレーは食べたことがありません。

 演奏の評価として、感動させることというのはなかなか難しいものがありますが、音楽でもCoCo壱番屋のように、毎日でも聞きたくなる演奏というのを目指してもいいのではないかと思います。聞くたびに感動する演奏というのは誰にでもできることではないですが、また明日も聴きたいと思うような演奏なら、努力すればできそうに思えるのではないでしょうか。もちろん、そうは言ってもプロでも厳しいくらい難しい目標だと思いますが、この目標はやはりカレー同様、音楽においてもかなり違った面を持っています。それは、例えば、木造のアパートで弾いたら、隣人はうるさくて迷惑すると普通は考えます。しかし、おや、どこからかバイオリンの音が聞こえてくる、と耳をすます場合もあり得ます。演奏の一つの説明としては、うるささというものが一切ない、そういう演奏になるでしょう。さらに、毎日聞くので、その演奏は常に新鮮なものでなければならないでしょう。

 もう二度と聞けないのではないかというくらい素晴らしいコンチェルトを弾いた演奏家が、アンコールで弾いた小品がやはり素晴らしいもの、というのは普通です。こういうアンコールの演奏は毎日聴いてもいい演奏なのではないでしょうか。実は感動させる演奏と、毎日聴いてもいい演奏にはあまり違いはないのです。ですから、感動させるという目標もいいですが、毎日聴いてもらえる演奏というのを目指してもいいのではないかと思います。うるささが一切なく、耳を傾けてしまう、そして常に新鮮さがある演奏です。もちろん、ここには音楽がきちんとある、それは当然です。

 

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音以外に聞こえてくるもの

 バイオリン演奏の初心者は、音を出すこと自体が難しいのですが、この部分をきちんと時間をかけて練習することは大事です。汚い音のまま練習を続けることは、その後の上達のに大きく影響します。当然、音の作り方は始めた時からずっとテーマとして存在し続けるものです。そして曲の練習を始めても、音程を覚えなければなりませんから、この段階も大変です。これもまたバイオリンを続ける限り、イントネーションの問題として存在し続けます。曲においては、楽譜に書かれたように音を出すことが難しいので、初心者の多くは楽譜に従って演奏することを目標としますが、この段階からも既に音を出すだけでなく、表情をつける練習も並行して行う必要があります。つまり、単に楽譜の音符を音にするだけではつまらない演奏なので、そうではなく、きちんと音楽になるように演奏する必要があります。これも一生かかって取り組む課題で、昔弾いた曲でももう一度やり直すと、以前は気がつかなかった表情があることを見つけたりします。これが自分の力でできるようになると、演奏者としての自覚が出てきて、演奏にも自信がついてくるでしょう。若ければプロを目指すのも当然と言えます。

 多くの演奏者は、この段階になれば、まだ未熟であると自覚していても、それなりに演奏できるレベルと言えます。自分は才能がなさそうなので、この程度で十分と考えたら、このレベルに留まることはできず、どんどん下手になっていきます。この段階のとどまるには、やはり先を目指して練習を続けることが大切です。そうすると、もしかするとあることに気がつくかもしれません。曲を演奏するときに、曲の持つ表情を捉えて表現する演奏をする、それだけでは不十分だと感じる瞬間があるのです。

 不十分なのは、いわゆる大家の演奏にあって、普通の演奏家に無いもの、がそれです。巧みな表現、緻密なアンサンブルの有機的な関係性、ダイナミックな音の運動、などはすばらしいものですが、こういうものだけではない、もっと別のものがあります。それは音楽の尊厳性、曲の核であり、これなくしては、その音楽は存在しないというものです。抽象的でわかりにくいですが、言い換えるならば、音以外に聞こえてくるものです。バイオリンは案外わかりにくかったりしますので、むしろピアノの場合の方がわかりやすいのではと思いますが、名手の演奏では、ピアノの音が全く意識されず、音以外のものがよく聞こえてきます。ピアノの響き、それしか聞こえない演奏にはそれがありません。同じように弦楽四重奏でもオーケストラでも、そこから楽器の音以外のものが聞こえてきます。

 この音以外のものが聞こえてくると言っても、それは音があるから聞こえてくるものです。あまりいい例えかどうかわかりませんが、言葉、詩の場合、英語がわからない人が英語の詩を聞くと、単に英語の音声が聞こえてきます。しかし、日本語の詩の朗読では、我々日本人はその朗読から音声以外のものが聞こえてきます。それは言葉の持つ意味だけではなく、その詩が持っているものであり、さらに感覚を超えたものも聞こえてきます。それは、詩人がその詩を書く始まりとなったインパルス、衝動です。

 抽象的なだけでなく、禅問答のような話になってしまいますが、この音以外に聞こえてくるものがある、それをまず知って、それからそれを演奏に取り込んでいく、これは演奏者にとって大事なことだと思います。

 


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自信を持って演奏しても、良くない演奏とは

 緻密な曲分析を行い、演奏する、それはかなり期待できる演奏のはずですが、あれ?という場合はよくあります。ブラームスは大好きで尊敬もしている、となれば期待できるはずですが、あれ?という場合もやはりあります。前回の演奏が非常に良かった、だから期待できるはずが、あれ?という場合もあります。

 上手であれば、自分あるいは自分達の演奏の出来というものを判断することができます。そういう高いレベルの演奏家であっても、こういう期待外れということが起こります。それは、演奏の客観的な観察というのは、演奏者自身には原理的に不可能であることに起因します。そして、どんなに客観的な観察をしたとしても演奏全体の観察という点では、必ず欠ける部分があります。ですから、まずは、客観的な観察は聴衆からも意見してもらうことと、録音などで自分でも可能な限り観察することがとても大事なのです。

 しかし、そういうことを繰り返しているうちに自分の演奏の出来を客観的に観察しなくても、それなりに判断できると勘違いしてしまいます。まだ、自分では気づいていない部分が多いのに、そのことを無視してもいいと思うようになってしまうのです。それはいつも同じ聴衆、という場合には直ちに起こります。聴衆も善意で厳しい演奏評を言うことはありません。聴きに来たのだから演奏を楽しみたいと思うので、多少気になる部分があっても演奏を楽しむようになルものです。とkろが、演奏者の方もそれで問題がないと勘違いをします。なぜなら、自分は曲分析をきちんとしている、あるいは演奏テクニックは自信がある、あるいはこの曲について強く敬意を持ったいるなどの、演奏を良くする理由があるからです。

 もう一つの勘違いのよくある理由は、最初は表現というものに注意して演奏しますが、一度良い演奏をすると、その演奏をまたやろうとします。すると演奏が前と変わってしまうのですが、そのことは客観的に観察しない限り、演奏者本人にはわかりません。具体的にいうと、一度表現に注意して音を出した時に、とても良い、そういう風に演奏するなら完璧、と言われます。すると、次からは同じ音を出そうとします。しかし、最初は表現に注意していたのに、次からは表現ではなく、音を作る技術に注意が向いてしまいます。表現よりも別のことに注意が向いてしまうのです。これによって演奏が変化し、表現は何処かへ行ってしまうのです。

 こういうことからいろいろな注意事項をリストとして作ることができます。例えば、前と同じような演奏をするのではなく、もっと良い演奏を目指せとか、聴衆の評価だけで満足してはいけないとか、満足こそが上手になる最大の障害であるとか。しかし、このようにあまり記述だけだと、それは本来の問題から離れて理解する予知ができてしまいます。ですから、大前提として、原理そのもの、つまり、演奏者の内からの視点と聴衆の外からの視点は原理的に異なるものである、ということを忘れないことが必要です。

 最後に、内からの視点と外からの視点の違いの、別の例を述べます。一枚の絵があったとします。それを描いた画家がその絵に見ているものは、他者がその絵に見るものとは異なります。これが内と外の視点の原理的な違いです。


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