Violin演奏 独学のすすめブログ

「Violin演奏 独学のすすめ」の著書の内容に関係する追加など

恥ずかしいのは悪くない

 自分の演奏を恥ずかしいと思う人がいます。それとは反対に恥ずかしさなんて全く感じないで、人前で堂々と演奏する人もいます。個人的には私個人もそうでした。しかし、そういう人もその後に演奏が上手になってから、昔の自分の演奏を聴くと、なんと恥ずかしい演奏をしたのだろうと思ったりします。

 恥ずかしさというのは、自分の演奏が下手だから感じるのですが、それは手本とする演奏と比べるからそう感じるのです。そして、いくら練習してもその目標にはほど遠く、いつまでも未熟なままです。しかし、これは悪いことではありません。誰でも未熟な時期はあります。それを否定したら、そこから先へは進めません。恥ずかしくても、目標とする演奏を目指して課題を一つ一つクリアしていくことで、徐々に恥ずかしさ以外に自信も持つようになります。そして、人前でも演奏できるようになるでしょう。

 恥ずかしさを感じるのは、比べる手本があるからですが、それがどういう手本であるかが、非常に大事です。というのは、もし、具体的に手本演奏をイメージできるなら、その演奏から、自分に多くのものが流れ込んで来ます。それは音楽的な価値という言葉でまとめることができます。その自分に来るものによって、練習をしようという力が湧いて来ます。例えば、名演奏を聴いて、この曲をやってみようというのもそういう力です。音楽的価値というものは人に力を与えるのです。しかし、単に上手と言われることとかであると、そこからは何も流れてきません。むしろ、練習するたびに自分の下手さが自分を傷つけることになるかもしれません。ですから、手本とする演奏は、それによって自分が価値あるものを受け取れるものにする必要があります。

 もう一つは、実は価値あるものは、誰かの演奏だけでなく、目の前の音楽そのものからも受け取れるということです。つまり、モーツァルトやバッハ、ベートーベンの音楽は、それ自体が演奏家を練習させる力を持っています。そのイメージを忘れて練習すると、練習は辛いものとなり、音楽的価値が全くないものとなります。練習を続けるには、その曲から流れてくる音楽的価値に常に注意することが大切です。それにそういうものを知ることで、モーツァルトの天才に比べたら、本当に自分はどれだけ恥ずかしいと感じても足りません。そして、その恥ずかしさがさらに先へ進む力となるのです。

 


リンク
「バイオリン演奏 独学のすすめ」の販売サイト
ヤフーオークションフリマ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v575540131?notice=clols

非強制的強制

 勝負では勝てばいいんだよ、と言う人がいます。学校でも、問題は正解すればいいんだよ、という風に教える先生もいます。演奏でも演奏できればいいんだよ、というレベルから、お客さんが喜んでくれればいいんだよ、というレベルまで、全く同じ考えを持つ人はいます。

 こういう考えは結果が全てであり、どうやって過程は重要ではない、というものですから、これがすべてとするのは一面的な考えです。数学の問題を、解ければいいというのは間違っていませんが、それは最初の段階だけなのです。実際、中学の数学では解法を何種類も勉強します。その一つだけでいいということではありません。連立方程式二次方程式がそうです。それがその後の勉強にも繋がるからというのもありますが、どの解法で解くかという選択も数学の勉強の一つなのです。ですから、結果を第一に考えるのは悪いことではないが、それは初期の段階だけであり、その後は、どうやって解いたかの方が重要です。

 演奏においては、楽譜を単に演奏するだけは初期の段階であり、どんな風に楽譜を音にするのか、というのが大事です。つまり、同じ楽譜を使っても、それを音にするときには色々な演奏があります。単に音にするだけで済ませているのであれば、それはどんな巧みな演奏であっても初期の段階です。そこから先に進み、どうやって音を実現するかへと向かい合う必要があります。

 どうやって音にするのかは、先生がだいたい方向付けをします。ですから、同じ先生に習っていると同じような演奏になったりするのです。しかし、やがて、自立して、自分なりに音にするようになる段階がきます。それは先生の元にいる段階から始まる場合が普通です。なぜなら先生は事細かく指導できるわけではないというだけでなく、どういう音にするかは言葉では説明できない部分もあるという、原理的なものなのです。この自立して演奏を作っていく段階からようやく演奏家であると言えるでしょう。

 演奏家と呼べる段階になれば、楽譜から本当に自由に演奏を作って行くのですが、それは案外自由ではありません。つまり解釈という日本語に注意が必要です。解釈とは自由にやって良いという意味がついています。しかし、実際に楽譜から音楽を捉える場合、実はそれほど自由はなかったりします。音楽はmovementという言葉があるとおり、一種の運動とも言え、そこには法則があり、そこから外れた演奏はできないのです。クラシック音楽の楽譜というものは一種の強制を要求します。細かく書いていなくても当然こうすべきという強制項目があるのです。このことは非強制的強制という原理で、音楽以外でもあります。

 もちろん、最初から的確な捉え方ができるわけではありません。ですから、試みのような演奏をすることもあります。そして、多くの演奏家は同じ曲でも若い時と年取ってからでは演奏が随分変わったりするのは普通です。もちろん、有名な曲ではそこまでわかりやすく変わっていない場合もありますが、実は微妙な変化はあります。全ての演奏家について言えると言っていいでしょう。

 どうやって音にするかについて、楽譜以外の選択肢がない、というのは初期の段階では普通です。なぜならそれまで、単に音にするだけ、あるいは先生に言われただけで、それ以外に注意していませんから、どういうやり方があるかに気がつくはずはありません。しかし、このことを頭に入れて、練習したり、他の演奏家の演奏を聴くならば、それは少しずつですが、音楽感覚を豊かにするでしょう。大事なのは、このことに注意することです。さらに、音楽だけでなく、様々な生活体験から感情を豊かにするといいです。それによって、曲に含まれている感情にも気がつくようになります。

 

リンク
「バイオリン演奏 独学のすすめ」の販売サイト
ヤフーオークションフリマ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v575540131?notice=clols

理性ではわからないこと

現在、日本では学力というものが一番価値があると思われています。つまりは東大生は偉い、というわけです。学歴はともなく、知識が豊富で思考力が卓越した人間は優れた人間であると思っている人は多いでしょう。これは理性というもので、実は理性は人間の精神活動の一部でしかありません。理性が優れている方が優れているというのであれば、やがてコンピュータが一番優れた存在というものになってしまいます。現在でもボードゲームではコンピュータに勝てませんから、コンピュータは人間より進化した存在になってしまいます。

人間の精神活動は理性の他に感情があります。一般人だけでなくコンピュータ学者の中にも、プログラムが複雑になればコンピュータにも感情に相当するものが生まれる、と考える人もいるかもしれませんが、それは感情というものを知らないからです。理性と感情は全く異なります。一番大きな違いは、理性は言葉によって説明でき、それで理解できるのに対し、感情は言葉では説明できず、それは体験を通してしかわからないものだからです。感情は理性によっては理解できず、体験によってのみ理解できるのです。人間の精神における感情と理性は根本的に異なるもので、お互いに関係はありますが、代用はできません。

音楽を聴くといろいろな感情が沸き起こってきます。そして、感情は単に喜怒哀楽のような数少ないものではなく、もっといろいろな種類があります。モーツァルトのオペラでは2000種類の感情が表現されると言われるくらいです。ですから、音楽演奏をするには、何よりもいろいろな感情を知っていることがとても大切です。その数千種類の感情はほとんど名前すらありませんし、同じ怒りという言葉でも実際にはいろいろあります。感情は説明ではどういうものかわからず、体験でしか理解できません。しかし、このことは楽しいことだけでなく辛いことなどのように様々な体験が必要であるということを意味しません。

感情には悪いものと良いものがありますす。悪い感情を持つような体験は必要ありませんし、同じ体験でも良い感情を持つ人と悪い感情を持つ人とがいて、同じ体験になるとは限りません。悪い感情が生じたら理性によってコントロールする必要がありますが、そもそもどういう感情が悪くていいのかの区別は簡単ではありません。そこで、一番良い感情の育成は芸術体験です。特に音楽は人間の感情にとって直接的で良い体験になります。それは聞いてもいいし、演奏しても体験が可能です。メンデルスゾーンは音楽は美しくなければならず、醜悪なものを表現してはいけないとベルリオーズに言ったそうですが、それは悪い感情を起こすような音楽のことを言っているのではないかと思います。

そうやって芸術体験を通じて知った感情が豊かになれば、発達した理性と同じように人間の精神は発達することになります。若者の演奏と老人の演奏の違いというものは、場合によってはこういうことが差になっていると言えます。つまり、そういう豊かな感情で演奏すれば、曲の隅々から色々な感情を感じることができ、また共演者の演奏からも同じように感じることができ、それは演奏にわずかですが確実に影響を与えることになります。そして、こういう演奏を続けることによってさらに多くの感情体験をすることになるでしょう。何より、これは音楽とか変わっていることの確かな体験であり、演奏者本人にとって価値あるものです。


リンク
「バイオリン演奏 独学の勧め」の販売サイト
ヤフーオークションフリマ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v575540131?notice=clols

商業主義とは

施設などで演奏して、みなさんに喜んでもらった、という話はよく聞きます。また、演奏会というものは、お客さんが喜んでくれればいいのだ、という考えの方もいるでしょう。クラシック音楽以外でも、このことは同様にあります。音楽活動も一つの経済活動ですから、料金に対してお客がそれに対応するものを受け取る、それが商売であり、それ以上何も考える必要はない、というのが商業主義というものです。

人が他人との関わりという点で毎日行っていることは社会活動と言いますが、社会活動は政治、経済、文化の三つに分類することができ、どれも大切な活動です。音楽は経済活動であるだけでなく、本来、それは文化活動です。簡単な例を挙げれば、単なる例ですが、1000円でラーメンを食べに行くか、それとも演奏会に行くかと迷った時、少し空腹を我慢してでも演奏会に行くのは、それに見合った文化活動の体験があるからです。特に音楽はその時に聞かなければ、同じ場所同じ演奏者でも二度と同じ演奏は聞けません。食事も、このシェフの作る料理はその時に食べなければ二度と食べられない、という場合もありますが、それは決して空腹を満たすための食事というよりも、むしろ美食という文化的な価値を求めているのです。学生相手に味より量を重視している、という店でも長く続いているところは、学生に文化的な価値を提供しているものです。

商人は、自分の提供する商品の価値をよく知っていて、それに見合った代金を要求します。しかし、色々な状況があり、単に良いものを提供してもなかなか儲からない場合もありますから、そこが商売の難しさと言えるでしょう。それに対して商業主義というのは、単にお客が欲しいものを提供すればそれで良いと考え、儲けというものによってしか価値を認めません。つまり多少問題がある商品でも、お客が欲しければ売れば良いという考えです。実際お客はそれで満足するのです。

音楽では演奏が商品となりますが、その価値に注意せず、単に人が集まるかどうか、お客が満足しているかどうかだけに注意する商業主義においては、次第に商品の価値は落ちて行きます、演奏というものは、そのレベルを維持するということはなく、上手になるか、下手になるかの二つの道しかありません。それは常に流れる川にいるようなものなのです。だから、演奏の中身について注意を払わなくなると、それは時間とともにどんどん下手になります。演奏家がお客が来てくれるからいい、喜んでくれたからいい、という商業主義に陥ってしまったら、その演奏は質が落ちて文化的価値はなくなって、むしろ悪影響を持つものとなり、世の中は堕落への道を進むことになる、と言ってもいいでしょう。実際に人を暴力的な思考へ導く音楽というものも存在します。音楽は感覚から感情へと働きかけるものですが、その感情から思考へと影響します。悪い感情が生じるようになると、そこから思考も堕落してしまうのです。

聞き手が喜んでくれることは結果としてはOKなのですが、それを目的しては商業主義に陥ることになり、常に自分の演奏の文化的価値、つまり演奏の質について注意することが必要です。このことが商業主義を排除することになります。これはプロアマ関係なく、全ての音楽活動において、大事なことです。


「バイオリン演奏 独学のすすめ」の販売サイト
ヤフーオークションフリマ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v575540131?notice=clols

練習しても上手にならないケース

練習すればそれに応じて上手になると思っているのが普通です。もちろん、いくら練習してもなかなか上手にならない難しい曲というものがありますが、客観的に見れば、それなりに上手になっていると判断できるでしょう。

 

ところが、実際には練習しても対して上手にならない場合があります。本人は上手に弾けるようになったと思っているのですが、根本的に上手にはなっていないのです。ですから、練習初め頃の録音と本番を比べても大して変わりません。いや、そんなことはあり得ない、弾けない部分が弾けるようになっているし、音程も良くなっている、という反論は当然ですが、実はそれは演奏の基本的な良さとは関係がありません。もちろん、これは初心者の話ではなく、自分はそこそこの演奏はできると自覚している人に起こることです。

 

そういうケースでは、多くの場合、一番最初の音合わせ練習時のレベルがかなり低いまま来たりする人が怪しいです。そういう人は本番もそういうレベルで済ませ、それでなんとかなってしまうと勘違いしています。それが2回、3回と続くといつもそういうことをするようになります。そして、たまに一生懸命練習しても大して上手にはならないのです。初めから、自分の設定している目標レベルが低いのです。

 

演奏は何か新しい知識やテクニックを身に付けて上手になるものである、という考えもありますが、具体的にはこの新しさを目標にすることはできません。それは非現実的な目標です。実際には、自分が理想としている演奏に対して、どこが現時点で欠けているかという不完全な部分を直していくことで上達し、演奏が上手くなっていくのです。ですから、自分がイメージする理想的な演奏という目標がどういうものかが非常に重要です。今の自分にできるのはこのレベルの演奏だなどというものを目標としては、欠点を直しても上手にはならないのは当たり前です。自分の現在のレベルを考えず、理想的な演奏をイメージして、それを目標にして練習することが上達となります。

 

上記のことを踏まえると、当然ですが、上手な演奏者と共演すべきで、下手な、練習しても対して上手にならない演奏者とは共演すべきでない、ということが言えるのですが、実は、それを言えるほど上手な人はなかなかいません。つまり、お互い様なのです。このケースというのは、初心者ではないけれど未熟な段階にある人だけでなく、結構無難に演奏会をこなすレベルでも生じます。音大を出てプロ活動している人でも生じます。どの段階、どのレベルでも生じ得ることです。合奏では助けてもらうこともありますが、迷惑をかけてしまうこともあります。社会生活と同じです。ですから、弾きにくいなあということがあっても、相手を信じ、自分の練習を続けることが一つのコツになります。

 


「バイオリン演奏 独学のすすめ」の販売サイト
ヤフーオークションフリマ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v575540131?notice=clols

音楽における呼吸

アマオケなどで、アインザッツ、音の出だし、が合わないときに、呼吸を合わせて音を出す練習をさせる場合もありますが、音楽でいう呼吸は、この実際の呼吸のことではありません。

ついでに、実際の呼吸を合わせる練習についていえば、本来は呼吸を合わせて音が合ったら、今度は呼吸を意識せずに音を合わせる練習へと移行しなくてはいけません。多くの場合、それをしないと、アマオケのメンバーは呼吸を合わせることばかりに注意を向けてしまい、本来すべき音への注意をしなくなるのです。結果、乱暴な音になっていても気がつきません。肺による呼吸を合わせなくても音を合わせることができ、それが普通です。精神と肉体が正常な状態にある時、呼吸は無意識に行うのが一番良いのです。その時、肺は必要な量の空気をきちんと取り込む、吐き出します。意識的に行うことでこのバランスはずれてしまうことになります。もちろん、逆に精神と肉体が正常でなくなる危険がある場合は、意識的な呼吸雨によって正常を取り戻すのはとても良い方法です。

音楽における呼吸は肺の呼吸のことではなく、音の流れについてのことで、緊張と弛緩、あるいは集中と開放という対比で示されます。息を吸うと、空気は肺の中に集まってきますが、逆に肺は大きく膨らみます。息を吐く時は肺は小さくなりますが、空気は外へ出て広がっていきます。集中と開放という言葉で示しますが、実は集中している時も膨らんで広がる対称性があり、開放している時も肺の動きのように小さく集中する対照的なものが付随しています。それを理科して、集中と開放を捉えます。

一つの典型的な例として、リズムに対応した集中と開放を考えると、細かい音符が連続しているときは集中となり、一つ一つの音に注意を集中させます。この時、比喩的に言えば、肺の呼吸のように音が自分の中で密になり、内なる音楽空間が広がります。そして、長い音になると今度は音が広がるように注意を広がる音に向けます。自分の中にあった音楽空間は小さくなります。これが音楽における呼吸、集中と開放です。場合によっては緊張と弛緩という言葉の方が適切な場合もあるでしょう。

呼吸は音楽が始まってから終わるまで、原則、ずっと続いています。つまり、集中と開放が繰り返されます。これによって、演奏は生き生きとした生命感のあるものとなります。空気が内と外を動くように、音が集まって広がる運動をするようになります。演奏にはとても大事であることがわかるでしょう。

「バイオリン演奏 独学のすすめ」の販売サイト
ヤフーオークションフリマ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v575540131?notice=clols

理性と感情

モーツァルトを演奏するときに、例えばある人は繰り返しの二回目はやや弱くする、ということを当たり前のように言いますし、やります。その理由はと聞くと、先生から言われたから、となる場合も。これは理性的な理解と言います。演奏においてはこのような理性的な理解はかなり重要ですし、わかりやすいです。それに比べ、単に演奏を比喩的に述べ、具体的にこうするああすると言わない場合は、わかりにくいと言われます。

しかし、このわかりやすい説明には、演奏者にとってかなり致命的な落とし穴があります。つまり、本来音楽演奏は聞き手の感情に訴えるものであり、決して理性に訴えるものではありません。大事なのは繰り返しの2回目を弱くすることではなく、それによってどういう感情に訴えるか、ということなのです。例えば二回同じように繰り返すと退屈するから、という理由で弱くするという説明をする場合があります。しかし、弱くすれば退屈を避けられるということは全くありません。ですから、退屈を避けるために2回目を弱くするという演奏にも意味がありません。それは単に理由であって、本当に2回目が退屈しないかどうか、それを保証するわけではないのです。つまり理性的な理解は大切ですが、そこからどういう表現にするかを見つけなければなりません。

同じようなことは市民オケやレッスンで頻繁に生じます。例えば、指揮者が、ここはもっと強く、と言います。そして言われた人は楽譜に強くと書き込んだり、マークします。しかし、指示に従って大きな音で演奏すること自体には意味がありません。それは理性的な理解であって、感情に訴える演奏について示しているわけではありません。結果、単に強いだけの、場合によってはうるさい演奏になるだけなのです。強くするということはどういう表現にすることなのか、自分の感情を動かして感情的に音楽を理解するということが必要です。市民オケなどの初級者達には、わかりにくい指示かもしれませんが、ここはもっと堂々ととか、響きが広がるような音でとか、自分達が英雄であるようにとか、比喩的で感情が動かされるような説明の方が的確になる場合は多いでしょう。しかし、具体的ではないので、わかりにくい、ということになります。

音楽表現というものを考えないで演奏する場合は必ず理性的な理解だけで満足してしまいます。しかし、音楽家と言える人々は、単純な理性的な指示だけで、どういう表現かを理解するのです。ですから、指示の仕方に良い悪いはありません。常に、その場の状況にふさわしい指示方法というものは変わるものです。そして、最初から案外細かく表現についての説明をすると、あなたのイメージの音楽と私のイメージしている音楽は違うから難しい、ということになる場合もあります。ですから、基本は楽譜に書いてもいいような理性的な指示や説明が普通でしょう。

このように、理性と感情の問題は何度も取り上げていますが、なかなか理解が難しいものの一つです。まずは理性と感情が全く別のものであるということを理解する必要があります。初期のAI科学者の中に、コンピュータのプログラムが複雑になれば、それが感情を形成するようになる、と考えている人が普通にいました。つまり、データを比較して判断するという単純な理性を持つコンピュータプログラムも複雑になることによって、感情と同じような計算結果を出すようになるというわけです。ですから理解するという誰でもよく知っている体験すらもコンピュータは持つことができ、中国語の部屋問題というものに代表されるように、中国語で正しく応答できるなら、コンピュータは中国語を理解していると言えるのだと真剣に主張されていました。最先端の考えは時代とともに徐々に下へと降りていきますから、今では一般人や一部の科学者はそういう考えを持つ人がいるでしょう。

音楽に限りませんが、例えばクラシック音楽を好きな人は感情は喜怒哀楽以外に多くの種類が存在し、それは理性では置き換えることができないものだという体験をしていると思います。そして、感情について多くの体験をすることで、つまりクラシック音楽にのめり込んでいく中で、感情は理性と反するものでもなく、さらに理性と同等に人間にとっては必要なものであるということを知ると思います。人間の進化は精神的な面で生じますが、理性の発達だけでなく、この感情の発達も同様に重要で、教育においてもそれが取り上げられるようになるといいと思います。

 

 

「バイオリン演奏 独学のすすめ」の販売サイト
ヤフーオークションフリマ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v575540131?notice=clols