Violin演奏 独学のすすめブログ

「Violin演奏 独学のすすめ」の著書の内容に関係する追加など

音は真の創造

都会にいても、二子玉川駅からの夕焼けのように、はっとさせられ、しばらく見続けることがあります。多くの人はその夕焼けを見てはいませんが、これを見ないのは本当にもったいない気がします。クラシック音楽を聞いているときにも、演奏が終わっても動けないほど、心が動かされることがあります。こういう体験は似ていますが、この二つの例には根本的に異なるところがあります。つまり、一つは自然にあるもので、もう一つは人間が作り出すものです。共通の部分もあります。自然は人の心を動かそうなどという意図があるはずもありませんが、演奏も同じで、実は人を感動させようという意図はないものです。そういう意図を持つと、それは聞く側に伝わりますが、このことは、音楽の代わりに演奏者の意図が伝わってしまうことになります。

演奏に集中することで、時として音と自分自身が一体化するような体験をすることがあります。自分が作り出したものと自分が一体化することは、宇宙が自分自身を創造したように、真の意味の創造と言えます。そして、音を出すことは、自分が出そうとする意志があって音を出します。これは自然の法則、因果関係に支配された風の音や皮の音、雷などとは根本的に異なります。独立した意志による創造なのです。

楽譜があるから音を出す。音を出せと言われたから音を出す、そういうことは一種の因果関係ですが、実際にはそこには隠れて履いても自分の意志があります。しかし、因果関係によって意志を従わせています。そうではなく、同じ状況でも、それを自分の自由な意志として動かし、音を出すならば、それは真の創造の音となります。たった一つの音でさえもそうなのです。自分が出そうとして音を出す、その音と一体化することができ、それが創造である。このことを常に意識して音を出すなら、それは純粋な響きとなるでしょう。

自分が出そうとして音を出している、と多くの人は思っています。しかし、それだけでは不十分です。その音と一体化できるには、そこに響以外のものがあっては不可能です。例えば、自分の才能を見せつけようとか、これで自分と他人の腕前の違いを見せようとか、これで褒めてもらおうとか、そういう意図があると、自由な意志から音を出しても、その音と一体化することはできません。川のせせらぎのような心地よささえもそこにはないのです。むしろ不快にさせる音となるでしょう。人は不完全な生き物ですから、誰しもが常に理想的な音を創造できるわけではありません。しかし、このことを目指さなければ、演奏は全く進歩しないとさえ言えるでしょう。音を出すこと、それは崇高な、尊厳のある創造なのです。

 

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